一般的な宗教、キリスト教にしかりイスラム教にしかり、ヒンドゥー教にしかり・・・

その宗教の中で教祖を越えることは概念として存在しないのが感覚です。

それはタブー中のタブーであり、そんなことを考える人すらいないのが宗教の現実ではないでしょうか?

武学は違います。

師匠を超えるのが当たり前。だから、2500年間、宗教にならずに今に至ります。

師匠を越える

武学において師匠にとって最も喜ぶべきは、弟子が自分を超えることです。

それは指導者にとって、自らの指導力を証明することにつながるからです。

弟子が自分すら超えられないようであれば、それは指導力のなさを露呈することになるからです。

とはいえ、なかなか師匠を越えるのは簡単なことではありません。

しかし、その「師匠を越えるのが当たり前」という概念があれば、その関係において依存関係になりづらく、いつかは再創造して自分の形を創ることを意図して取り組むことになるでしょう。

その雰囲氣が重要なのです。

系の外に出て新しい系を創る

常に教わる立場に居続けると、創造主である自覚を手放し、師匠に自らの人生を委ねるような感覚になったりします。

しかし、それでは本末転倒です、

特に武学において、自らが創造主として世界を再創造し続けることを意図しながら稽古をする中において、師匠の言いなりになるのは違います。

もちろん師匠の教えを守りあり方を磨く中で、自らが主体としてそれを自分のものにして、世界を再創造するためのツールとして使えるかどうかです。

そして自分だけの形で世界をより良くすることで師匠を超えていくのかもしれません。