イノリとは祈りであり、意乗りであるということはこちらの記事でお伝えしました。
イノリで世界を創るというのは、わたしたち人間の命題であり、本来の創造主という立場に戻れば当然の如く使える技術なはずなのです。
ただし、わたしたちは損得感情に支配され、本来の自然さを忘れ、分離して世界を窮屈なものにしてしまいました。
しかし、それはただ忘れているだけで、思い出せばいつでもまた創造主としてこの世界をより面白くしていくことができます。
ミソギから始まる五行練功
禮にはじまり、禮に終わる。
禮によるミソギから武学の稽古システムは始まります。
まずは自分自身をミソギ、ゼロに戻すことがスタートになります。
相手との分離感も、じぶんが全てであり、全てがじぶんであることを忘れてしまうことが原因です。
まずはそこを思い出し、他人との分離感をなくすことで、必然的に「あなたも、わたしもわたしです」というムスビの状態が起こります。
そしたら、あとはその状態が崩れないように、間を吊り上げてマツリを起こし、その状態で、イノリを起こすと実体化してミノリが起こります。
イノリはこの五行練功の一部なので、まずはミソギをしっかりと行う必要があります。
それは禮法というツールがあるので、しっかりと禮法を磨いてゼロに近づけていく稽古をする。そうすると必然的に、ゼロ=無限大の境地にたどり着くことができ、イノリが自然と実体化する神の領域に戻ることができます。
これこそが、究極のイノリです。
イノリが実体化する瞬間
いわゆる、瞑想などで禪の境地を追い求めることは、けして悪いことではありません。
しかし、実体化することができる状態になれたのか、確認ができないというデメリットがあります。
武学で行う禪は必ず対人でのチェックを基本としているので、実体化するイノリを起こすことができる禪の状態を確認できます。
そして、相手との相対関係において、イノリを起こすことで、目の前に現象を起こすことができる実用的なイノリを習得することができます。
そして、そのイノリには「やった感」がありません。
達成感もなければ、力感がないので、自分が起こした現象にびっくりすることすらあります。
そして、そこには感謝しかなくて、禮に始まり禮に終わり、また禮に始まるという五行練功が一巡します。
このように、武学のイノリは非常にニュートラルであり、力感がなく、ごく自然なのが特徴です。
それゆえに、他人の自由を崩さないので、水のようにどこへでも入り込むことができるのです。