仏教などで「悟りの境地」と表現される、悟り。

悟りをゴールとすると、それはいつまでも手に届かないものになりかねません。

悟りがツールであるという認識に変換されると、悟りは通過点になる。

悟りはツールである

悟りを求めて山に篭って座禅を組み瞑想をする。

そんな光景が目に浮かびますが、このときに実際に悟れる人はごくわずかだと言います。

自称「悟りました」という人はたくさんいますが、それは果たして本当なのか検証はできません。

故に、悟れてる人はほとんどいないのではないか、という視点で考えてみるとあることが見えてきます。

それは「悟り」をゴールにしているということ。

言い換えれば、「悟ったら何かすごいことがある」という幻想に囚われて、悟りに依存的になっているということです。

武術では悟りに対して、こういった考え方を持ちません。

むしろ、悟ってからがスタートであるという考え方です。

悟りを使って世界をより良くするための稽古をする、そんな悟りをツールとして捉える感じです。

悟りを手に入れてからがスタートなので、悟りは通過点になります。だから実際に悟れるようになるのです。

悟りが起こっているかの検証

悟りは滅多に起こせるものではない。

そんな固定観念があったとしたら、悟りは途端に難しいものになります。

しかし悟って当たり前、悟らないと始まらない、と言われたらどうでしょう?

どうにか早く悟って次に行きたいと思うのではないでしょうか。

これが武術の稽古システムの大前提です。

悟りとは差取りです。

差とは相手との分離感であり、エネルギーの高低差です。

相手とのエネルギーの高低差をなくして同調し、同化すること、それが差取り=悟りです。

ですから、相手も自分だし、自分も自分であるという統合された感覚になっていきます。

すると分離感がなくなり、相手との調和を体現し、ゼロに戻ります。

それは自然であり、常に調和する在り方です。

天人統合禮法をより繊細に丁寧に行うことで、悟りの状態は簡単に手に入ります。

実際に対人で検証すれば、それが「本当」であることが体感できるでしょう。ぜひ体感してみてください。

感じたことだけが真実ですから。