礼法と礼拝法。

これらは似ているようで、かなり違った特性を持ちます。

いわゆる宗教に必ず存在する、礼拝堂。

それは何を意味するのか。

礼法と礼拝法の違いについて見ていきましょう。

礼と礼拝

結論から言うと、礼法は人に対してのもの。

そして礼拝は大いなる自然や天地宇宙、大自然にするもの。

対象が違います。

そして、その実行後に身体に宿るエネルギーもこれまた違います。

特に礼拝のエネルギーは大いなる自然そのものにアプローチがかかり、リンクし、自然であった自分に立ち返ることができるので非常にパワフルです。

ですので、礼法と礼拝法は少し次元が違います。

礼法を活用する

自分自身を禊儀、ゼロ化してニュートラルに戻すことができる礼法。

これは非常にパワフルですが、なかなか活用に至らないケースも多くあります。

それは、礼法をツールとして認識して、自分自身の人生をより豊かに、より面白くするため、そして志を上述するためという目的をもって使えていないからです。

例えば、包丁も、何も目的を持たずに握れば、時にそれが人を傷つけてしまうかもしれません。

しかし、美味しい料理を作り喜んでもらうという目的のために使えば、最良のツールとなるでしょう。

礼法も同じくツールですので、その目的が重要になります。

天人統合禮法という究極の礼法もその目的が不明瞭であれば、そのツールは錆びて使えないものとなります。

しかし、自分の志成就という人生の目的が明確になれば、これ以上頼もしいツールはないでしょう。

自分自身をゼロに戻し全てと繋がり、自分の志成就のために非常用な情報を下ろすためのツール。

ゼロ=無限大。

今日も、乱れたら天人統合禮法をしてゼロに戻し、わたしが全てであったことを思い出し、内なるアカシックレコードにアクセスして必要な情報を入手する。

そしてその情報をもとに人生はもちろん、目の前の世界を再創造していく神であることを思い出す。