いわゆる瞑想法と呼ばれるものは、悟りを体現していく中で、本当に悟りが起こっているのかどうか検証ができません。
なので悟ったと言い張れば悟ったことになるかもしれない危険性を孕んでいます。
一方で武術ではそういった「思い込み」の入る余地はありません。悟っているか、悟っていないかどちらかがはっきりわかります。
なぜなら検証方法が存在するからです。
検証のできないことはやらない
瞑想にしても、ヨガにしても、何か目指す状態があって、そこを目指す中で、本当にその状態になっているのかどうかは重要です。
現代ではテレビが普及して、ステレオタイプに情報を検証抜きで信じやすい土壌が出来上がっています。
学校教育も教科書に書かれていることが正しいという前提で知識を入れ込む稽古です。
その系から出て、疑い調べ検証するという工程が決定的に欠けています。
だから、瞑想するにしてもそれが正しい所作であり、主観的に悟ったかどうかを悟りの基準にしてしまっているきらいがあります。
一方で、武学体術ではこういったことを全て検証していきます。
悟りも必ず対人でチェックして悟っているかどうかを調べます。
ですから、検証のできないことをやることがありません。なぜなら、思考の世界に入り概念や論理を戦わせることになるからです。
実感のある悟りとして日常に活用する
悟ることを学んでも悟ることはできません。
そして私が、悟りを神格化することによって、より悟りづらくなってしまいます。
だから、何千年も経っても釈迦を超える人がいないということになります。
そうではなくて、もっと系の外に出て、自分の人生や世界をより良くするために悟りを活用するという意識で取り組むとまた結果が変わるはずです。
要は悟りをスタートにする。
悟ることが当たり前。スタートであるという意識で取り組むこと。
そうするとその本質が見えてきます。