志体術をはじめ、武学の入り口では基本的に「思考」と「身体」という対立構造をあえて用いて身体の賢さを体感するところから入ります。
それは誰もが持っている素晴らしい「身体」」というツールに目を向けて、その身体の可能性を体感するところから、自分自身の可能性を感じるきっかけをつくるためです。
そんな身体を使った学校におけるプログラムが体育です。
体育は宗教を越える
宗教はいわば「思考」の究極形ではないでしょうか。
思考の中から生み出された「神」が絶対的な存在として世界を創造したという「概念」が土台にあり、その土台の上に世界観が創られています。
これはこれで面白いですが、その結果として争いが生まれてしまっている事実は見過ごせません。
であれば、宗教は宗教としてそれは置いておいて、他のツールを使って世界から争いをなくす方法を模索するのが面白いんじゃないか?
そこで注目したいのが「体育」です。
思考を使うと争いが起こりやすいですし、相手との調和は理屈の世界だけになってしまいます。
しかし、体育、身体を使ってやれば、相手との間に絶対的な「感覚」として調和を感じることができます。分離していれば、それも体感できるので「できる」か「できないか」の世界になります。
この瞬間、宗教ではたどり着けなかった「世界平和」の道が拓けるのです。
身体に目を向けさせない意図
ここだけの話。
身体に目を向けさせない大いなる意図がある、そんな仮定をしてみましょうか。
身体から目を逸らさせることで、思考の世界に入り込み分離が生まれやすい。
このことを「知ってるもの」がいるとしたら。
それをあえて使って分離を生み出し、大衆をコントロールすることも可能になるということです。
あくまで仮定の話ですが、もしそんな悪意があるとしたらそう言った世界に対して第三の提案をしたいですね。
それが我々、武学を体現するものの使命かもしれません。
否定するのではなくて、第三の提案をする。
全ての人がより面白くなる世界を再構築する、真の創造主となりましょう。