もし神という存在がいるなら、それはどういった存在でしょうか?
人によって神の概念や所在は違いますよね。
特に宗教性が強く、人によってはタブー視する人もいるでしょう。
そう言った方は、こちらで読むのをやめておいた方が良いでしょう。
それぐらい衝撃的な話になりかねないからです。
そんな話を今日は深堀していきます。
神という存在を越える存在
武學毉術体術では、神という存在を外側ではなく、内側に入れるところから始まります。
内側に入れる、というのは自分自身が神であることを思い出すという意味です。
それを「主体性」とか表現しますが、全てを自分が創造しているという「意識」を持つということです。
松下幸之助が雨が降っても、それすら自分が降らせていると考えていたという、それぐらいの意識を持つということです。
さて、そんな神という存在ですが、さらにその神という存在を越える存在があるなら・・・
それを「天・点(TEN)」と呼ぶことにすると面白い世界が始まります。
天とは
日本には大和言葉というものがあり、響きを大切にします。
要するに、同じ響きであれば、同じような意味がある可能性があるということです。
天という言葉の響きは(TEN)ですが、この天と点には同じような意味があり、「0=無限大」そんなメッセージがこもっていると考えられます。
全てであり、0である。
いわば「すべて」の情報が天であり、点だということ。
その状態を体現するのが禮法であり、ゼロ化ということです。
禮にはじまり禮に終わる、とはまさに天に始まり、天に終わる、と表現できるかもしれません。
天という存在を体現する。
それが酔八仙之術の究極的な目標かもしれません。