愛という言葉ほど、その本質が見えなくなっている言葉はないかもしれません。

「愛してるよ」

「愛のために」

「愛してほしい」

愛とはなんなのか。

なぜお釈迦様は愛という言葉を使わずに慈悲という言葉を使ったのか。

この記事では愛という言葉の意味やその本質について深掘りしてみます。

愛とは

愛とは・・・

辞書で調べると「かわいがり、いつくしむこと」と出てきます。

実はこの時点では大きくずれていないのです。

愛とは、かわいがり、いつくしむこと。つまりそれは感覚であり行動です。

そして、そこに対象が絞られていないことがポイントになります。

しかし、現状は誰かを愛し、誰かに愛されているという非常に対象が絞られた行為になっているのです。

だから、愛の定義そのものに「誰かを」という限定要素が入り込み、すべての人を愛せなくなっていることが多くの問題を引き起こしています。

愛という言葉を使わずに愛和という言葉を使う

愛とは、小愛と大愛にわかれます。

普段使っているのは小愛であり、いわばエゴです。

誰かを愛しているということは、愛していない誰かを生み出します。そのこと自体が分離を引き起こしているということです。

だから武学体術では愛という言葉を使わずに、愛和という言葉を使います。

お釈迦様も愛という言葉を使わずに慈悲という言葉を使いましたが、それも同様の考えからではないでしょうか?

全てのものを愛しているのに、いちいち愛という言葉を使う必要があるのか、愛していないということを存在させないためには、愛という言葉自体をつかないことが一番なのかもしれません。

全てがわたしであり、わたしが全てであるなら、全てを愛し、自分を愛することが本質に違いありません。

そしてそれはまさに社会性の本質であり、愛とは人間が本来持ち合わせている、真の社会性のことなのです。