悟りを目指して日々修行している。
山奥の寺の中で一人・・・
そんなシチュエーションってありがちですよね。でも一人で悟ったところで、本当にそれ悟れてんの?
そして、それをどこで使うの?
悟りに対するアンチテーゼ。
悟りは使うものだ
山奥の空氣の澄んだ自然の中で悟る。一見すると素晴らしいことのように思います。
もちろん、すごく氣持ちいい素晴らしい感情に包まれることだと思います。
しかし、それを日常のドロドロとした泥のような日々の中で使えるのか?甚だ疑問です。
レノンリー老師は、そういった日常の雑踏の中で使えてこそ本物だと言います。悟りをゴールにすると、そもそもそんな発想はないかもしれません。
しかし、武学では悟りはスタートなのです。悟ってから、その悟りを日常にどう活用していくのか、そっちの方が遥かに重要です。
そしてもう1つ、一人で悟ったという人がいますが、果たしてそれはどうやって証明するのでしょうか?悟れてない可能性はないのでしょうか?
悟りを今ここで証明する対人活瞑想のすすめ
武学では対人稽古が基本にあります。ですから一人でやる稽古はほとんどありません。型稽古くらいでしょうか。あとは全て対人でやります。
なぜなら、できてるかどうかをその瞬間に証明し続けることで「できてる」という実感と経験を蓄積するためです。
もし万が一できてなかったら・・・どんどん下手くそが上手くなっていきます。
一人で悟ったという人は、もしかしたら悟ったつもりになり、ずれた悟りが上手くなっている可能性があるということです。その状態を回避するには、自分という宇宙ともう1つの宇宙との間の相対力学によって、自分の正しさを相手を通して証明する以外にありません。
そこでおすすめなのが、対人活瞑想です。相手との間の差をとりながら、相手と一体となった状態で動き続ける稽古です。これならば、ずれたら相手とのリンクが切れるので、お互いに正しさを感じながら稽古することができます。
これができれば日常に悟りを使うのが上手になっていくことは理解できるかと思います。